音のある風景にあこがれていました。
たとえば昔みたキューバの街角。ニューヨークの駅のホーム。
たとえば市役所からひびく5時のキンコンカンコンだったり、ただ単に木や水のそよぎだったり。
毎日のなかに存在していて、誰からも疑われない。そういうしずかな主張に素敵を感じていました。
そして風景というのはきっと、そこにあった匂いや触れた水のやわらかさ、五感をこえた感覚のこともすべて含んでいて、
味わうこころひとつで誰でも何でも風景になれるんじゃないか。
もとはといえば音楽だって、そんなもんじゃなかったろうか。
当たりまえにあちこちに、音をさかせたい。
望まない、予期しない人にそれは残酷な余計なのかもしれません。なくてもいいのに。
いや、ない方が。駅前で歌っていて耳をふさがれたこともありました。
だからこれは「好きにやっているから放っておいてほしい」という世捨てめいた口実ではありません。
音のする側にだって、うるさくない風景でいるためのチエとチカラ必要です。
そしてそれが果たしてひとの立ちどまるべきになれるのか。
自分の音楽、あわよくば音楽すべてに爪あとをつけられるかもしれない。
音を通していろいろをいただいてきました。
音を通してはじめて、いただいたものもありました。
音を通して着想した音符がつらなり、時間と人をへてこの企画『音のする風景』ができました。
個人でやっても怪しまれるので、この団体『音のするネットワーク(おとねっと)』ができました。
耳をはずして、きいてください。
今日のこの音楽が、あなたの風景になれますように。
おとねっと代表